星新一とは?

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星新一公式サイト
SFを中心に生涯1000編を超える作品を執筆し、現在も国内外で人気の「ショートショートの神様」星新一の公式サイトです。
星新一公式サイト-プロフィール-
SFを中心に生涯1000編を超える作品を執筆し、現在も国内外で人気の「ショートショートの神様」星新一の公式サイトです。
第9回 日経「星新一賞」公式ウェブサイト
理系的発想からはじまる文学賞- 日経「星新一賞」公式ウェブサイト。作品の応募は、2021年6月1日から9月30日まで。
ショートショートの神様『星新一』の本。子どもも読める!短編 ...
2020/8/10 - 超短編小説「ショートショート」を1000篇以上も生み出した星新一さん。その作品はどれも不思議で、ユーモラスで、ちょっとブラックで、とにかく面白い ...
星 新一(著者詳細情報) | 絵本ナビ | 作品一覧・プロフィール
星 新一(ほししんいち)。1900万人が利用する絵本情報サイト.

協力者として3人への謝辞が書かれているが、下訳の事実について福島らの元同僚・内田庶がエッセイの中で言及している。
* ジョン・ウィンダム『海竜めざめる』 早川書房、1966年(昭和41年)* クリスチーネ・ネストリンガー『トマニ式の生き方』 エイプリル・ミュージック 1978年(昭和53年)* フレドリック・ブラウン『フレドリック・ブラウン傑作集』 サンリオ、1982年(昭和57年)* アイザック・アシモフ『アシモフの雑学コレクション』 新潮社、1986年(昭和61年) ISBN 4-10-218604-2* なお星作品の主な外国語訳は以下のとおり。
*: 1963年(昭和38年)に『ボッコちゃん』が英訳され、『Magazine of Fantasy and Science Fiction』6月号に掲載。
*: 1966年(昭和41年)に短編『景品』がロシア語に訳され、コムソモリスカヤ・プラウダ紙に掲載。
同年『冬きたりなば』がソ連・ミル出版社刊の『世界SF選集』の国際短編アンソロジーに収録される。
*: 1967年(昭和42年)、短編『タバコ』『願望』『危機』『冬きたりなば』『宇宙の男たち』『景品』がソ連・ミル出版社刊の日本SF短編アンソロジーに収録される。
容貌や作風とは裏腹に、実生活でもギャグを連発するなど「奇行の主」と呼べる側面があった。
SF仲間の集まりなど、気を許せる場では奇人変人ぶりを遺憾なく発揮していた。
同行している作家仲間を驚かせることもしばしばだったという。
特に筒井の初期短編は、星の座談でのギャグに大きく影響を受けているといわれる最相葉月『星新一 一〇〇一話をつくった人(下)』新潮文庫 pp.161-163。
SF作家仲間たちと西新宿の台湾料理店(山珍居)に集まり、SF的な雑談に興じたが、中でも星の「異常な発想の毒舌発言」はその中でも群を抜いていて、他のSF作家たちの回想文などで神話的に語られている。
その一部は『SF作家オモロ大放談』(いんなあとりっぷ社、1977年。
のちに『おもろ放談』(1981年)と改題され角川文庫に収録)で読むことができる。
平井和正は星の異常な発言をテーマにした短編小説「星新一の内的宇宙(インナースペース)」を発表しており、作家仲間が集まると自然と星を中心に話題が広がっていた様子が描写されている。
しかし、文庫解説等では(育ちがいいこともあり)しばしば紳士的な人物と書かれた。
世代・生育環境が近いこともあり、北杜夫とも親交が深かった2人とも父親は医薬系組織(製薬会社と病院)のトップ、母親は名家出身(小金井良精の孫と大病院の娘)で本人は東京(本郷と青山)育ち。

また、礼節を欠いて接してくる人間には距離を置いて接していた。
星製薬が人手に渡った後も永らく、星薬科大学評議員という肩書きがあった。
なお、手塚治虫の漫画『ワンダースリー』の主人公・「星真一」の名前は彼に由来する。
星新一自身は、手塚の息子の手塚眞にちなんでいる可能性も考えていた星新一「文句を言い忘れた『W3』の主人公名」『朝日ジャーナル臨時増刊 手塚治虫の世界』朝日新聞社、1989年。

『三田文学』1970年10月号で、福島正実と「SFの純文学との出会い」という対談をした際、星が「ネパールに、ヒューマニズムに燃えた外国の医師団が乗り込んで病気を治し、死亡率をさげた結果、人口が増えて貧民が多数発生した。
一種のヒューマニズム公害と言える」と発言したところ、同席していた編集者は「公害が文学になるのですか?」「問題があるのはわかりますが、どうして文学がそんなものに、こだわらないといけないのですか?」と応答をした。
星は「文学が想像力を拒否するものだとは思わなかった。
ぼくが純文学にあきたらなくなった理由がわかった」と発言した。
SF的発想に対する「純文学側の無理解」として、有名なエピソードである。
作品のアイデア同様、他の作家とは着眼点が異なり、第1回奇想天外SF新人賞の選考委員として、小松や筒井がほとんど問題にしなかった新井素子の『あたしの中の……』を強力にプッシュし(結果は佳作入選)、作家として活躍していくきっかけを作った (『奇想天外』1978年2月号「新人賞選考座談会」より一部抜粋)。
ただ一人、選考委員を任じたショートショート・コンクール(のちにショートショート・コンテストと名称変更)からも数千にも及ぶ作品の中から、後にプロとして確固たる活躍をしていく作家を多数発掘しており、その慧眼ぶりを発揮しつつ後進に道を拓いている。
とはいえ、星新一ショートショート・コンテストとほぼ同時期に募集・発表があったショートショート・コンテスト「ビックリハウス」のエンピツ賞受賞作については「感性を非常に重視した作品」が選ばれており理解が及ばず、お手上げの状態だったという『きまぐれ読書メモ』(有楽出版社)p.178。
生前は自己の作品の映像化・戯曲化をほとんど許さず、アニメ化を持ちかけた製作会社ガイナックスの武田康廣に「自分の作品がいじくられるのは真っ平ごめんだ。
やるなら俺が死んでからにしてくれ。
それなら文句は言わない」と断っている。
小松はこの件を聞き、「星さんならそう言うだろう」と武田に語り、自作のテレビアニメ化『小松左京アニメ劇場』を快諾したという武田康廣『のーてんき通信 エヴァンゲリオンを創った男たち』ワニブックス、2002年、pp.120-121。

例外的に短編のいくつかが、アニメーション作家の岡本忠成によって人形アニメーションとして在命中に製作されている(#星新一作品の映像化参照)。
なお、作品にほとんど反映されていないため看過されがちであるが、星は化学の修士号を持ち、その方面の著書もある、れっきとした科学者出身SF作家である。
また、「リスクもなく大きなもうけが出る」と称して大量の人から金銭を集める詐欺行為の被害者について、「だまされた者は、欲に目がくらんだ者であり、救ってやる必要などない」などと辛辣な内容をエッセイに書いていた『きまぐれ遊歩道』(新潮文庫)pp.111-112他。
別のエッセイ集『できそこない博物館』では、「不渡り手形をつかまされれば、誰だって人間不信になる」といった一文を目にすることができる。
身長180センチという、大正生まれとしてはずばぬけた長身の持ち主であった。
そのため、日本SF作家クラブには「星新一より背の高い人間の入会は認めない」という冗談会則があったが、これを初めて破って入会したのは田中光二である。
特にドイツ文学に傾倒したり滞在した経験があるわけではないが、この国と縁の深い人物の多い家系外祖父・小金井良精と大伯父・森鴎外については有名だが、父・星一も留学経験こそないものの、フリッツ・ハーバー訪日の援助をしたり、ベルリン工科大学名誉教授の称号を贈られるほどの親独家として名高い。
も影響しているのか、ドイツびいきの感覚があり、エッセイ「クマのオモチャ」では「ドイツを全面的に信用している」「いい意味での恐るべき民族である」と手放しに近い賛辞を呈していた。
同じくエッセイ「名前」では長女の名前ユリカを誕生月7月のドイツ語(Juli ユーリ)から発想した経緯を綴っている(ともに『気まぐれ星のメモ』所収)。
また、星作品には国籍の明確な外国人はほとんど登場しないが(そもそもどこの国の話かすら判らないものが多い)、『ほら男爵現代の冒険』の主人公は当然ドイツ人であり(ただし文中でドイツという言葉は使われない。
先祖の話や、旧日本軍に同盟国の方と呼ばれたり、生きていたヒトラーに同胞としてふるまうなどの間接表現にとどまる)、『気まぐれ指数』にも重要な脇役で在日ドイツ人が登場している。
青年期と、かなりのブランクを経て中年期以降にもクラシック音楽を愛聴していた。
クラシックの中で最も好きな曲に、ベートーヴェン『大公三重奏曲』を挙げ、コルトー、ティボー、カザルスの演奏盤を愛聴していた星新一『きまぐれ遊歩道』p.76(新潮文庫、1990年)。
小松左京によると、星には少年愛の傾向があり、ひところはピーター(池畑慎之介☆)に入れ上げて「ピーターに会わせてくれるんだったら、とにかく大長編書くとかね、つまらんこといってた」という北杜夫『怪人とマンボウ』p.118(講談社、1977年)。
その後、郷ひろみに入れ上げていた時期もあり、「彼はね、一人で支那まんじゅう食いながら、郷ひろみのテレビ見てんだそうですけど、鬼気迫るな」とも小松は発言している北杜夫『怪人とマンボウ』p.119(講談社、1977年)。
ウイスキーが好きで、特にサントリーの角瓶を愛飲していた。
エジプト旅行に行く際、免税店で買い求めたが取り扱っておらず、仕方なくオールドを買った。
角が置かれていなかったことを非常に残念がり、「角なんて飲めなかったな、昔は」「飲めなかった。
高級品だったんだ。
手が出なかった。
それが、いまじゃ、ああいう所に置いてないんだから。
喜ぶべきことなのか、悲しむべきことなのか」と発言している佐々木清隆『さよならバーバリー 2』(1998年)~jg3k-ssk/hoshi2.html。
公立はこだて未来大学は2012年9月6日に「きまぐれ人工知能プロジェクト 作家ですのよ」の開始を発表した。
松原仁(はこだて未来大学)、中島秀之(はこだて未来大学学長)、角薫(はこだて未来大学)、迎山和司(はこだて未来大学)、佐藤理史(名古屋大学)、赤石美奈(法政大学)の6人でプロジェクトチームを結成した。
星新一のショートショート作品の解析を行い、プログラム的に体系化、生成アルゴリズムの検討と共にトライアンドエラーを繰り返し、人工知能によって2017年までに星新一作品と同等かそれ以上のショートショートを自動生成できるようにすることを目指している5年以内にショートショートの公募に匿名で応募して入賞することを目指すとしている。

瀬名秀明が小説の評価方法の検討を行うなどの顧問を務める。
2015年9月には、自動生成されたショートショートを第3回星新一賞に応募したことが発表された。
1926年(大正15年)、東京府東京市本郷区曙町(現・東京都文京区本駒込)に生まれる。
母方の祖父小金井良精の家がある本郷で1945年(昭和20年)まで育つ。
母方の祖父母は帝国大学医科大学長で解剖学者の小金井良精と森鷗外の妹・小金井喜美子である。
また小説家・鈴木俊平は父の妹の孫にあたる『きまぐれ読書メモ』p.219(有楽出版社、昭和56年(1981年))。
東京女子高等師範学校附属小学校(現・お茶の水女子大学附属小学校)を経て、東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)に進む。
附属中学の同期には、槌田満文(武蔵野大学名誉教授)、今村昌平(映画監督)、大野公男(元北海道情報大学学長)、児玉進(映画監督)、黒澤洋(元日本興業銀行会長)、星野英一(東京大学名誉教授)などがいた。
附属中在学中の1941年12月に対米開戦となり、これにより英語が敵性語となること、敵性語として入試科目から除外されることを見越して英語を全く勉強せず、他の教科に力を入れて要領よく四修(飛び級、旧制中学は5年制)で旧制の官立東京高等学校(現・東京大学教養学部及び東京大学教育学部附属中等教育学校に継承)に入学した。
このため秀才と呼ばれたが、戦後になってから英語力の不足を補うため今日泊亜蘭の個人授業を受け、さんざん苦しんだという。
高等学校在学中、満16歳の時に1年間の寮生活を経験した。
当時の寮生活について、親友の北杜夫や小松左京がしばしば旧制高校の寮生活を懐かしんでいるのとは対照的に「不愉快きわまることばかりで、いまでも眠る前に思い出し、頭がかっとなったりする」星新一『きまぐれ読書メモ』p.20(有楽出版社、1981年(昭和56年))、「入ってみてわかったことだが、この学校はとてつもなく軍事色が強く、教師だけならまだしも、生徒たちの多くもそのムードに迎合していたので、うんざりした。
着るものはもちろん、食うものもだんだん不足してくるし、学校は全部が狂っているし、まったく、どうしようもない日常だった」『きまぐれ暦』p.225(新潮文庫、1979年(昭和54年))と回想している。
これには戦後と戦中の違い、四修の星が若年だったことも大きい。
星は高校も2年で終えているため、新制大学卒業者よりも1年早い満21歳で大学を卒業している(通常なら帝国大学の場合は満23歳)。
1948年(昭和23年)、東京大学農学部農芸化学科を卒業した。
農芸化学科での同級生には後の酒類評論家の穂積忠彦(俳優・穂積隆信の兄)がいた『きまぐれ読書メモ』(有楽出版社)p.108。
卒業論文は固形ペニシリンの培養についてであった。
高級官吏採用試験である高等試験(のちの国家公務員I種試験、現在の国家公務員総合職試験)に合格したが、内定を取ることに失敗した。
なおかつ役人嫌いの父に受験が発覚し、厳しく叱責された。
東大の大学院に進学し、坂口謹一郎のもとで農芸化学を研究する。
液体内での澱粉分解酵素ジアスターゼの生産などをした。
1950年(昭和25年)に大学院の前期を修了するただし、星自身は「先日、東大の大学院の女性の会(妙なのがあるな)に呼ばれ、話をした。
修士課程を二つ出て、博士課程に在籍の人もいた。
まいったね。
それから私は、自分の略歴から、大学院に行ったことを削るようにしている。
学歴で作品が書けるわけじゃない」と述べている。
『気まぐれスターダスト』p.75(2000年、出版芸術社)を参照。

修士論文は「アスペルギルス属のカビの液内培養によるアミラーゼ生産に関する研究」(アスペルギルスはコウジカビのこと)であった「星新一年譜」(『別冊新評 「星新一の世界」 76 AUTUMN』、新評社、1976年(昭和51年))、p.202。

1949年(昭和24年)、同人誌「リンデン月報」9月号にショートショート第1作『狐のためいき』を発表する。
1951年(昭和26年)、父が急逝したため同大学院を中退し、会社を継ぐ。
当時の星製薬は経営が悪化しており、経営は破綻、会社を大谷米太郎に譲るまでその処理に追われた『人民は弱し 官吏は強し』、『星新一 一〇〇一話をつくった人』。
この過程で筆舌に尽くしがたい辛酸をなめた星自身は後に「この数年間のことは思い出したくもない。
わたしの性格に閉鎖的なところがあるのは、そのためである」と語っている。
会社を手放した直後、病床でレイ・ブラッドベリの『火星年代記(火星人記録)』を読んで感銘を受ける。
この出会いがなければSFの道には進まなかっただろうと回顧する。
星は厳しい現実に嫌気が差し、空想的な「空飛ぶ円盤」に興味を持つようになる。
たまたま近くにあった「空飛ぶ円盤研究会」に参加した。
この研究会は三島由紀夫、石原慎太郎が加わっていたことでも知られている。
星製薬退社後は作家デビューまで浪人生活が続くが、自宅が残っていた上に、星薬科大学の非常勤理事として当時の金額で毎月10万円が給付されており、生活に窮するようなことはなかったその後、1970年の『日本紳士録』第58版にも「星薬科大理事」との肩書が記載されている。

1957年(昭和32年)、「空飛ぶ円盤研究会」で知り合った柴野拓美らと日本初のSF同人誌「宇宙塵」を創刊する。
第2号に発表した『セキストラ』が大下宇陀児に注目されただし最相葉月は『星新一 一〇〇一話をつくった人』(新潮社、2007年(平成19年))のpp.208-217で「矢野からしきりに『セキストラ』を読むよう勧められた乱歩は、一読してこれは傑作だと思い『宝石』に掲載することを考えたが、自分が責任編集をしている雑誌に自分が推薦するのではどうも具合が悪い。
そこで乱歩が大下宇陀児に提灯もちを依頼し、九月末発行の十一月号でデビューさせることになった」「大下が推賞したのは事実であるとしても、大下が『発掘』したというのは宣伝用の惹句で、矢野が書き残している通り、乱歩から依頼された大下の『提灯もち』が、いつのまにか大下の『発掘』という定説になってしまった」と述べている。
その根拠として当事者だった矢野の証言の他、肝心の大下本人の推賞文が短い一文しか存在しないこと、それに比して乱歩が『宝石』の『セキストラ』末尾に記したルーブリックは約800字と長く、作品の具体的内容にまで言及して絶賛していることなどを挙げている。
、当時江戸川乱歩の担当編集だった「宝石」に転載されてデビューした。
1958年(昭和33年)には、多岐川恭が創設した若手推理小説家の親睦団体「他殺クラブ」に、河野典生、樹下太郎、佐野洋、竹村直伸、水上勉、結城昌治と参加した。
なお、「他殺クラブ」については、佐野洋の自伝『ミステリーとの半世紀』(小学館)には、「1960年3月結成」とある(同書、P.130)。
1960年(昭和35年)には「ヒッチコック・マガジン」に作品が載り、また「文春漫画読本」から注文がくる。
また「弱点」「雨」などショートショート6編で直木賞候補となる。
また、この年に横山光輝原作の実写版テレビドラマ「鉄人28号」でSFアドバイザーとしてクレジットされる。
1961年(昭和36年)、医者の娘で小牧バレエ団のバレリーナだった村尾香代子と見合い結婚した。
髪が長いのが結婚を決意する決め手になったと後年語った。
1963年(昭和38年)、福島正実の主導による日本SF作家クラブの創設に参加した。
同年、同クラブの一員として、ウルトラシリーズ第1作『ウルトラQ』の企画会議に加わる。
会議に同席した『変身』、『悪魔ッ子』の脚本担当者・北澤杏子の証言によると、この場においては後に伝説となるような飛躍した発想の発言は聞かれなかったとのことである。
また、この年に福島正実と2人で、特撮映画『マタンゴ』の原案にクレジットされているが、実際はほとんどタッチしていない。
以降、40代から50代ながら、SF界では「巨匠・長老」として遇されることになる。
1976年(昭和51年)から1977年(昭和52年)まで「日本SF作家クラブ」の初代会長を務めた。
1979年(昭和54年)、「星新一ショートショート・コンテスト」の選考を開始する。
(詳しくは#星新一ショートショート・コンテストを参照)1980年(昭和55年)、日本推理作家協会賞の選考委員を務める(昭和56年(1981年)まで)。
1983年(昭和58年)秋に「ショート・ショート1001編」を達成した。
ただし、それまで関係が深かった各雑誌に一斉にショート・ショートを発表したため、「1001編目」の作品はどれか特定できないようにされている。
それ以降は著述活動が極端に減ったが、過去の作品が文庫で再版される都度、「ダイヤルを回す(=ダイヤル式の電話をかける)」等の「現代にそぐわない記述」を延々と改訂し続けていた。
かねてより「住んでみたい街」に東京都港区高輪を挙げており星新一『きまぐれ遊歩道』pp.90-92(新潮文庫、1996年)。
星は「高級住宅地なのだろうが、高級さをひけらかさないところがいい」「戦前の本郷の屋敷町にも、そういうムードのとこがあった」と述べている。
、母の死去による戸越の自宅の売却に伴い、1993年(平成5年)、高輪のマンションに転居した。
1994年(平成6年)に口腔癌と診断され、手術を受ける。
入退院を繰り返した後、1996年(平成8年)4月4日に自宅で倒れて東京慈恵会医科大学附属病院に入院。
肺炎を併発して人工呼吸器の必要な状態であったが、4月20日には人工呼吸器を外すことができた。
しかし4月22日の夜中、酸素マスクが外れ、呼吸停止に陥っているところを看護師に発見された。
自発呼吸は再開したものの、それ以後意識を取り戻すことはなく、1997年(平成9年)12月30日18時23分、高輪の東京船員保険病院(現・せんぽ東京高輪病院)で間質性肺炎のために死去した。
最相葉月『星新一 一〇〇一話をつくった人』上、新潮社〈新潮文庫〉、2010年、pp.11-18。


引用:Wikipedia:データベース

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