坂本龍一 苦言とは?

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坂本龍一、JASRACに苦言 「襟を正して透明性の確保を」 (BuzzFeed ...
日本音楽著作権協会(JASARC)は、映画音楽の上映使用料を引き上げ、映画館から 徴収する方針を決めた。「戦場のメリークリスマス」「レヴェナント:蘇えりし者」など、数々 の映画音楽を手がけてきた音楽家の坂本龍一さんは、クリエイターへ ...
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坂本龍一、JASRACに苦言 「襟を正して透明性の確保を」
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日本音楽著作権協会(JASARC)は、映画音楽の上映使用料を引き上げ、映画館から徴収する方針を決めた。「戦場のメリークリスマス」「レヴェナント:蘇えりし者」など、数々の映画音楽を手がけてきた音楽家の坂...- BuzzFeed Japan- 10分前
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坂本 龍一(さかもと りゅういち、Sakamoto Ryūichi、1952年1月17日 - )は、日本のミュージシャン、作曲家、編曲家、音楽プロデューサー、ピアニスト、キーボーディスト。
東京都出身。
世界的に活動している日本人ミュージシャンである。
その音楽性は幅広く、クラシック音楽が根幹にあるものの、民俗音楽、現代音楽にも造詣が深い。
幼いころから作曲を学び、東京藝術大学在学中にスタジオ・ミュージシャンとして活動を開始。
1970年代後半よりソロやKYLYNバンドのメンバーとして活動する一方、メンバーとして参加した音楽グループ「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」が国内外で商業的成功を収め、人気ミュージシャンとなる。
YMO時代にテクノポップやニュー・ウェイヴの分野で活動したことは広く知られているが、その後は一つのところに留まらず、現代音楽の手法を使った作品の発表、ロックとテクノの融合、ワールドミュージック、ヒップホップやR&Bなどのブラックミュージックを織り交ぜたポップス、オペラの作曲およびプロデュース、クラシックやボサノヴァのユニットを結成してのワールドツアー、近年はアンビエントやエレクトロニカの作品を発表するなど、ジャンルを超越して多彩な作品を発表している。
自身の音楽活動のほか、プロデューサーやアレンジャーとしても活動し、他のアーティストへの楽曲提供も数多く行っている。
また、映画『戦場のメリークリスマス』で映画に俳優として出演し、映画音楽も手掛け、日本人初の英国アカデミー賞の作曲賞を受賞した。
1987年公開の『ラストエンペラー』坂本が書いたピアノスケッチ譜に基づいて、実際のオーケストレーションは、坂本本人を含む、東京藝術大学作曲科後輩のアレンジャー川崎絵都夫、上野耕路、野見祐二、渡辺蕗子らが分担した。
では日本人初のアカデミー作曲賞を受賞し外部リンクに映像、また同曲でゴールデングローブ賞、1989年第31回グラミー賞最優秀オリジナル映画音楽アルバム賞など世界的な音楽賞を総なめした。
1990年、映画『シェルタリング・スカイ』のサウンドトラックを担当しロサンゼルス映画批評家協会賞の作曲賞、1991年にゴールデングローブ賞 作曲賞を受賞した。
以降、国内外の映画音楽を手掛け、映画音楽家としての地位を築いた。
音楽家としての活動のほかに、いくつかの映画や映像作品には俳優としての出演歴がある。
テレビCMにも多く出演しており、ときには、ダウンタウンなどとお笑い番組やバラエティ番組に出演する。
近年は各メディアで環境問題や平和問題をはじめとした諸問題について発言する機会も多く、最近はPSE問題において、坂本も中心人物として参加した反対運動が実を結んだ。
また「エコ」や「ロハス」といったキーワードを口にすることが多く、マクロビオティックの実践者でもある。
長年喫煙者であったが、針治療を通じて禁煙に成功した Web Magazine OPENERS - 坂本龍一の「上から」言いきる.... 2008年7月28日。
一時期はベジタリアンでもあったが、これは「人としての闘争本能がなくなりそうだから」という理由で後に挫折している。
2008年の9月には作家村上龍との対談で、現代の「夢があるということは素晴らしい、だから君も夢を持て」という風潮に疑問を抱いている発言をしている。
無類の猫好きである。
一人っ子だった坂本が生まれたときから15歳の時まで一緒に住んでいた猫と兄弟のように生活していたことが影響している2009年3月10日放送TBS「はなまるマーケット」での発言。

また無類のジャージ嫌いであり、昔よく遊んでた友達がジャージをはいていた日、その瞬間に絶交したことがあるほどで、「僕の前でみんなはかないでね」と発言している。
その一方でアルバム「千のナイフ」のジャケット写真を見た当時の音楽仲間が「あの汚い坂本が」と驚愕したほど、見た目に無頓着だった過去を持つ。
このような坂本が当時のミュージシャンに不可欠だったファッションセンスを得るに至ったのは、高橋幸宏の指導によるものである。
「教授」「世界のサカモト」とあだ名される。
左利き。
血液型はB型。
現在はアメリカ合衆国ニューヨーク州在住。
歌手の坂本美雨はシンガーソングライターの矢野顕子との間に生まれた娘で、坂本にとっては次女。
1952年、東京都中野区に生まれた。
父は河出書房の編集者で、三島由紀夫や野間宏、中上健次などを担当した坂本一亀。
母は帽子デザイナーで銀座の宝石商に勤務。
祖父は実業家、第五高等学校と京大とで池田勇人と同級で生涯の親友として付き合い、池田首相の葬儀に友人代表として弔辞を読んだという坂本龍一著 『音楽は自由にする』 新潮社、2009年、23頁。
通っていた幼稚園が「全員ピアノを習う」所だったため、3歳からピアノを習いはじめる。
自由学園幼児生活団に準じた世田谷幼児生活団において作った「うさぎのうた」が最初の作曲。
10歳で東京藝術大学教授の松本民之助に師事し作曲を学び始める。
なお、作曲を勉強し始めて最初に興味を持った作曲家はストラヴィンスキーであった。
この頃は特にピアノが好きではなく、むしろ苦痛だったという。
しかし14歳の頃は「自分はドビュッシーの生まれ変わりだ」と半分信じていて、サインの練習までしていた。
人生で最も影響を受けた音楽家も、ドビュッシーとバッハであるcommmons: schola vol.4 Ravel。
1959年から東京都世田谷区給田に育つ。
世田谷区立祖師谷小学校から世田谷区立千歳中学校バスケットボール部に所属した。
を経て、1970年に東京都立新宿高等学校を卒業塩崎恭久、野中直子と同期。

新宿高校時代には読書が趣味で、常に学校図書館の貸出ランキング10位以内に入っていた。
また風月堂などにたむろするフーテンたちに影響を受け、ジャズを聞くようになり、自分でも演奏する。
ロックも好きであったが、フォークは大嫌いであった。
また学生運動にも、のめり込むこの時の闘争仲間に、後に「アクション・カメラマン」になった馬場憲治がいた。

1970年東京藝術大学入学坂本が東京都立新宿高等学校一年生の時、坂本の作曲の腕前に関して、高校の先輩の池辺晋一郎から「このままの実力でも(東京芸大に)十分受かる」と太鼓判を押された。
芸大受験に失敗した場合は、父の母校である日本大学芸術学部に進むことを考えていた。
その理由は「当時の日大全共闘は一番ぶっちぎれていたから」。
(「SELDOM - ILLEGAL - 時には、違法」、1989年、角川書店より) 。
大学在学中、民族音楽学研究の泰斗小泉文夫の講義を受け、その内容の深さに坂本はそれまで培ってきた音楽観の根底を揺さぶられるような大きな衝撃を受けたという。
さまざまに変遷してきたと見られる坂本の作風であるが、そのベースには、小泉から学び得た民族音楽学の知識や思想がたしかにあるようである。
ただし小泉自身は作曲をしなかったので、坂本に作曲技法上の影響を与えたというわけではなかった。
また坂本は、大学在学中、一年ほど作曲家三善晃にも学んでいる(ただし一度直接指導を受けただけ、と坂本は発言している。
しかも、三善から「理論的すぎる」の如き指摘を受けたとも)。
さらには、渋谷で開かれていた高橋悠治の勉強会にも高校・大学を通して顔を出していた。
坂本が電子音楽に出会ったのは、そんな大学学部在学中のことである。
1974年東京藝術大学の音楽学部作曲科を卒業し、同大学院音響研究科修士課程に進む。
1976年修了。
1975年、大学院在学中に新宿ゴールデン街で意気投合したという友部正人の『誰もぼくの絵を描けないだろう』にピアノで参加。
スタジオ・ミュージシャンとしてのキャリアをスタートさせる。
翌1976年、竹田賢一と「学習団」という芸術-実践の運動体を組織し、竹田のプロデュースの下、はじめてのアルバム『ディスアポイントメント-ハテルマ』(土取利行とのコラボレーション)を発表。
以降、りりィのバックバンド(バイバイセッションバンド)に所属した後、当時のりりィのマネージャー(現株式会社365代表)が細野晴臣のマネージャーに坂本を紹介、YMO結成の足がかりとなる。
また初期の山下達郎の楽曲(「2000トンの雨」「パレード」など)、大瀧詠一のアルバム『NIAGARA TRIANGLE Vol.1』などにキーボードとして参加。
また、大貫妙子のLP『サン・シャワー』『ミニヨン』『ロマンティック』などにアレンジャー、プロデューサーとして参加。
1978年2月、細野晴臣のアルバム『はらいそ』に参加。
細野の誘いにより、高橋幸宏とともに「イエロー・マジック・オーケストラ」(YMO)を結成、活動を開始する。
10月、坂本初のソロアルバム『千のナイフ』をリリースし、ソロ・デビューも果たす。
11月、YMO名義の『イエロー・マジック・オーケストラ』を発売、続く『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』で爆発的人気を博す。
またこの年、風の旅団の前身となるテント劇団「曲馬館」の音楽にも参加した。
翌1979年にはYMOと並行する形で渡辺香津美、矢野顕子、小原礼、村上秀一、本多俊之らとセッションユニットKYLYNや、ほぼ同じメンバーで、各パート二人ずつで演奏技術を競わせるというコンセプトのカクトウギセッションでの活動を行う。
また一部の楽曲で第二ピアノを演奏した高橋悠治のLP『新ウィーン楽派ピアノ音楽集成』が発表された(後に『新ウィーン楽派ピアノ作品集』としてCD化。
また参加楽曲シェーンベルク「四手のための六つの小品」は坂本のアルバム『フェイヴァリット・ヴィジョンズ』にも収録されている)。
同年から1980年にかけて、YMOは2度にわたるワールドツアーを実施。
1979年12月、アレンジを手掛けたサーカスのシングル「アメリカンフィーリング」で、日本レコード大賞編曲賞を受賞する受賞のコメントで「売れようとか思ってやったわけではないので、自分のやったことが評価されただけ」と述べたという。

YMOとしての活動の傍ら、1981年よりNHK-FMにて「サウンドストリート」のパーソナリティを務める。
担当していた火曜日ではアマチュアミュージシャンから送られるテープを番組内で放送する「デモテープ特集」が不定期に行われていたこの番組にテープを送っていたリスナーで後にメジャーデビューしたのが、ジュラン、テイ・トウワ、槇原敬之らであり、またステッピン・イントゥ・エイジアでラップを担当した浅野智子もこの特集がきっかけで、同曲のレコーディングに参加することになった。
ここで流された曲の一部が後に「DEMO TAPE-1」としてCD化されている。

また、パンクバンドTACO (タコ)のオムニバスにな・い・し・ょのエンペラーマジックで参加。
同曲をサウンドストリートで放送したが、放送禁止用語が含まれていたため、すぐにオンエア中止になった。
メジャーシーンの活動と平行して、TACO以外にもアンダーグラウンドロックシーンとは交流があり、自主レーベルである、パス・レコードでフリクション、Phewのプロデュースを行っている。
YMOのライブを期待していた観客から野次られると「うるさいぞ、この野郎!」と怒鳴り返した等のエピソードもある。
またこの頃、立花ハジメ、沢村満、鈴木さえ子らと「B-2UNITS」という名前のユニットを結成、ライブ活動を散発的に行っている。
1982年には、RCサクセションの忌野清志郎と組んでシングル『い・け・な・いルージュマジック』をリリース。
資生堂'82春のキャンペーンソングとしてヒットする。
TVでは、どぎつい化粧をした男同士でキスをするなど、過激なパフォーマンスを展開した『戦場のメリークリスマス』でも坂本とデヴィッド・ボウイと抱擁しながらのキスシーンがある。
またこの年、矢野顕子と結婚。
1983年公開の映画『戦場のメリークリスマス』には、大島渚監督の依頼により、ヨノイ大尉役で出演し、デヴィッド・ボウイ、ビートたけしと共演。
出演の条件として音楽を担当した。
同作がカンヌ国際映画祭に出品された際に、映画監督ベルナルド・ベルトルッチと出会い、これが映画『ラストエンペラー』への布石となる。
この年、デヴィッド・シルヴィアンと組んでシングル「」(禁じられた色彩)をリリースした。
同年、YMOは「散開」(解散)する。
1984年、矢野顕子らと「MIDIレコード」を設立し、同レコード内にレーベル「school」を立ち上げる。
1986年には初のソロ・コンサート「メディア・バーン」を全国24カ所(28公演)で行う。
翌1987年、映画『ラストエンペラー』公開。
坂本は甘粕正彦満映理事長役で俳優として出演し、音楽をデイヴィッド・バーン、蘇聡とともに担当。
これによりゴールデングローブ賞を日本人で初めて受賞し、アカデミー賞作曲賞も受賞する外部リンクに映像。
以後、映画音楽作家としての地位を確立する。
溥儀役のジョン・ローンとは、敵役同士という間柄の役作りのために、撮影中は一言も口を利かなかったという「夜のヒットスタジオ」より。

1989年、海外戦略のためヴァージン・レコードに移籍するが、セールス的な成功を収めることはなかった。
後にEMIのヴァージン・レコード買収により契約を主導したヴァージン・アメリカの社長の辞任に伴って契約を解消。
1990年4月からは、音楽の拠点をニューヨークに移す。
別の女性と暮らしはじめ、男児をもうける日刊ゲンダイ、2014年8月13日 。
1992年にはバルセロナオリンピック開会式のマスゲームの音楽を作曲(坂本のスケッチに基づく管弦楽編曲は作曲家鈴木行一が担当)、自らも会場でオーケストラを指揮した。
この依頼の当初「ナショナリズムを高揚させるスポーツイベントは嫌い」と一度は断ったが、プロデューサー Pepo Solなど制作側から熱心なオファーがあり最終的には引き受けることになる。
契約金は他の出演者とともに1ドルであった本人は「日本人が外国人に歌舞伎をお願いするようなものだ」と語っている。

このときの楽曲は後に「El Mar Mediterrani」として発表された高橋幸宏によると「非常に嫌々やっていた」。

1993年、YMO「再生」(再結成)。
アルバム『テクノドン』を発表し、6月には東京ドームにて2日間のライブを行う。
1994年には契約地域を分割し、日本ではフォーライフ・レコードに移籍し、レーベル「güt(グート)」を設立。
日本国内での活動を活発にした。
日本以外の海外地域ではエレクトラと契約。
1995年、ダウンタウンの変名音楽ユニット「ゲイシャガールズ(GEISHA GIRLS)」をプロデュース。
以降、彼らとの親交を深め「ダウンタウンのごっつええ感じ」ではコント「アホアホマン」に出演、大便のシミを付けたパンツで登場するなどアホアホブラザー役でエキセントリックな一面を見せた『昭和55年 写真生活』(2017年、ダイアプレス)p52。
「野生の王国」でライオンの生態の時、松本の企みで浜田にほんこんと思い込ませ散々に苛めさせた後、怒り狂った坂本が驚く浜田をうち据えた。
1998年、エレクトラとの契約を解消し海外地域ではSONY CLASSICALと契約、日本ではワーナーミュージック・ジャパンに移籍。
1999年、製薬会社三共(現:第一三共ヘルスケア)リゲインのCMに用いられたピアノソロ曲「エナジー・フロー」を収録したマキシシングル「ウラBTTB」がミリオンセラーとなり、インストゥルメンタルとしては初のオリコンチャート1位を記録した。
また、自身初となるオペラ『LIFE a ryuichi sakamoto opera 1999』(以下、LIFE)を公演。
この頃には矢野顕子との夫婦仲は実質的に破綻していたとされ、テレビ番組「おしゃれカンケイ」において愛人(ニューヨークで行動を共にしているマネージャー)とその女性との間にいる子供(次男)の存在を認め、長男と坂本美雨に「お父さんにはお母さん(矢野顕子)以外に好きな人がいる」と告げたというエピソードも披露している。
また「子供は4人」と語り、矢野顕子との結婚前に学生結婚していた女性との間にも子供(長女)がいることも明かしている4人のうち1人(長男)は矢野顕子が前夫である矢野誠との間にもうけた連れ子で、坂本と養子縁組はしていたものの血縁関係はない。
なお、矢野との離婚後も養子関係を継続しているかは明らかでない。
2015年7月に美雨が女児を出産した際には、この女児が坂本にとっての初孫と報じられている(矢野にとっての初孫は2014年秋に生まれた長男の子供)。

さらに同番組では、「外国人が持つ日本コンプレックスをくすぐる、嫌いなアーティスト」として喜多郎とCHAGE and ASKAを名前を伏せた形で挙げた番組内では音声は伏せられたものの「K」と「C&A」と画面には表示し、さらに「K」について司会の古舘伊知郎は「ゲゲゲが付いたら」とヒントを挙げている。

2001年、TBS50周年特別企画番組「地雷ZERO 21世紀最初の祈り」に出演。
同番組の企画において、親交のある国内外のアーティスト達を起用し、地雷除去のためのチャリティーソング「ZERO LANDMINE」を作曲、リリースした。
同年にはボサノヴァトリオ「Morelembaum2/Sakamoto」を結成し、アルバム『Casa』を発表。
このトリオとしての活動、および坂本がこれまで自身の音楽にボサノヴァを取り入れてきたことなどが評価され、翌2002年、日本とブラジルの友好に寄与したとして、ブラジル政府より国家勲章を授与される。
2003年には、この年4月にオープンした六本木ヒルズのテーマソング「the land song-music for Artelligent City」を発表。
また、小林武史、桜井和寿らと非営利組織「ap bank」を設立。
2006年11月6日、エイベックスと新レーベル「commmons」を共同設立。
この年、矢野顕子と離婚。
2007年3月10日-5月28日、高谷史郎と共に、オペラ「LIFE」をベースにしたインスタレーション作品「LIFE - fluid, invisible, inaudible ...」を山口情報芸術センターにて展示。
3月10日にはオープニング・コンサートを行った。
9月15日-11月4日、東京のNTTインターコミュニケーション・センターでも展示。
9月15日には、浅田彰、中沢新一を交えてのアーティスト・トークに加え、オープニング・コンサートを行った。
またこの年は細野晴臣と高橋幸宏との活動が活発になる。
2月にキリンラガービールのCMにYMOとして出演。
同時に「RYDEEN 79/07」をリリース。
5月19日には「ヒューマン・オーディオ・スポンジ」(HAS)としてチャリティーライブを行う。
さらに7月7日には「ライブ・アース」にYMOとして出演。
8月22日には「HASYMO(ハシモ)」名義で新曲「RESCUE」をリリース。
2009年7月16日、芸術家として文化の多様性を豊かにしたことなどが評価され、フランス政府から芸術文化勲章「オフィシエ」を授与された。
2010年3月12日、芸術分野での優れた業績を評価され、文化庁より芸術選奨「大衆芸能部門」の文部科学大臣賞を授与された。
2012年11月23日、アジア太平洋映画賞国際映画製作者連盟賞を受賞。
2013年2月8日、米カリフォルニア大バークレー校日本研究センターから「バークレー日本賞」を授与された2013年2月10日閲覧 。
オリエンタリズムを感じさせる作風と初期の作品に見られた現代音楽の手法を用いた斬新さ、独特の風貌と知的な発言が固有の存在感を生み、多くのファンを獲得。
これまでに映画やCMにも多数出演している。
同年、「第70回ヴェネチア国際映画祭」のコンペティションの審査員を務める。
2014年、札幌国際芸術祭のゲストディレクターに就任。
2014年7月10日、所属事務所エイベックス・ミュージック・クリエイティヴから中咽頭癌であること、療養に専念するためにコンサート活動などを中止する旨が発表された音楽家 坂本龍一に関するお知らせ 。
かつてはインタビューなどで度々自身の健康状態や体力に自信を表しており、コンサート等公演スケジュールを自身の健康に起因する理由でキャンセルしたことがなかった。
2015年8月2日、映画『母と暮せば』(監督・山田洋次、主演・吉永小百合、2015年12月12日公開)の音楽で仕事復帰。
本作で第70回毎日映画コンクール・音楽賞を受賞。
2016年、第25回モンブラン国際文化賞を受賞。

引用:Wikipedia:データベース

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